チャーチストーリート5番地にて

ポーツマス駅から列車に乗った。ロンドン・ビクトリア駅からまた1時間列車にゆられ、メイドストーンに着いた。そこからタクシーに乗り、ボートン・モンチェルシーという小さな村にたどり着いた。
タクシーの運転手は感じの良いひとだったので、私はチップに1ポンドはずんだ。彼はスーツケースを家の入り口まで運んでくれた。家の前には小さな庭があり、開きすぎたピンクのバラが一輪、11月の風にゆらいでいた。

今から10年ほど前、*1993年 私はイギリスに暮らしていた。CSVという、イギリスのボランティア団体のもとで、ヘルパ―として過ごしていたのである。
この団体のもとでボランティアになると、アコモデーション (住むところ) 、光熱費、食費など一切払う必要はない。週末には約一万円弱のポケットマネーが手に入る。これは大きなお金ではないけれども、ふつうにイギリス人的生活を送っていれば充分な額である。イギリスは不景気が慢性化しており、若い人に職はない。そのため、高校を卒業して1~2年、ボランティアとして生活する若者は多い。あとで知ったことであるが、このようなボランティア団体はイギリスにいくつもあり、いろんな国からボランティアを募っている。

私はワイト島での2ヶ月の英語訓練を受け、あるプロジェクトに派遣された。それがミセス・ジーン・プリッグの介護である。ジーンはパーキンソン病を患っており、食事の用意や深夜の排尿介助などが必要であった。
彼女は12人兄弟の末っ子で、おそらく70歳台半ばだったと思う。他の兄弟はみなすでに亡くなっており、子供はいない。夫は3年前アルツハイマー病を患って亡くなったという。その夫が多額の財産をのこして亡くなったため、ジーンは2人のボランティアと、2軒の家を所有することができたらしい。ジーンの身寄りといえば、隣の州に住む甥2人くらいしかいなかった。
彼女のもとには、月曜から金曜まで、ソーシャル・ワーカーのドーリンがやってきて、ボランティアとの関係、またお金のことなど話し合う。火曜日と金曜日には、掃除をしてくれるベヴという女性がきて、ジーンの家と隣のボランティアの家をきれいにしてくれる。
私たちの家はいわゆるテラスド・ハウスで、四軒長屋のようなものだった。そのうちの2軒をジーンは所有していたのである。

私がいたころは、ジーンはまだそんなに重い状態ではなく、昼食は自分でつくっていた。
朝食の用意は、シリアルとコーヒー、夕食はうすく切ったフルーツケーキにバター付きパン、紅茶というもので、これらはボランティアが交代でおこなう。朝起きると、ストッキングをはかせ、靴をはかせ、ワンピースを着せる。蒸しタオルを用意し、それで顔をきれいにふかせる。ジーンはくしで髪を解かし、食事をし、そのあいだに私たちはポータブルトイレを洗浄する。それから届いたザ・ミラー紙 (イギリスの俗悪な新聞、ゴシップが多い) を読み始める。
これから夕方まで、えんえんとジーンはこの新聞を読みつづけ、今晩見るテレビ番組を決めているのだ。
午後6時半になると、私たちは再びジーンの家をおとずれ、夕食の用意、片付けをし、それから約3時間、ジーンがテレビを見るのにつきあわなければならない。

はじめのころ、私はこのテレビ・タイムが億劫で仕方なかった。
ジーンが好きなのは全くもってイギリス老人が好む、たわいもないドラマなどで、それが退屈である上、私は当時ほとんど英語がわからなかったので、ときどきジーンが話し掛けてきても、何と答えていいのかわからず、いつも “イエス、イエス” と言っていたような気がする。やがてわかってきたことだが、ジーンにはかなりユーモアのセンスがあり、よくジョークを言っていたらしい。でもそれも当時の私にはわからなかった。

ジーンは2週間に一度だけ、木曜日に外出する。亡くなった夫の墓参りである。
タクシーを呼んでどちらかのボランティアが一緒に墓地の掃除に行く。途中、いつも決まった花屋に寄って、墓に捧げる花を買うのだが、決まって菊の鉢植えである。しかも黄色かえんじ色の強烈な色のもの。私は「ときにはこういうのにしない?」とバラやユリを促すのだが、絶対に応じない。その墓地には亡夫だけでなく、ジーンの100歳で亡くなった母親や、兄弟の墓もあった。元気のあるときには、そういったひとびとの墓の掃除もしていた。
あるときこういうことがあった。ジーンと一緒に墓参りに行った私は、タクシーをおりるとき、ジーンの家の鍵を車内に落としてしまった。それに気づかず帰宅して、ジーンを家に入れようとしたところ、鍵がない。仕方ないのでタクシー会社に問い合わせると、鍵はあり、今からもってくると言う。

しかしこの事件それだけでもうジーンはぐったりしており、からだのふるえもひどくなり、私たちの家へ入れてやすんでもらうことにしたが、紅茶をすすめても口をつけず、何を言ってもふるえて無言であった。
やがてタクシーがきて、鍵を受け取り、ジーンは家に戻れたのであるが、彼女はこのことで全く私を責めなかった。私が翌日やってきたドーリンに昨日の出来事について話すと、ドーリンが「ジーンはそのことについてひとこともしゃべらなかったわ」と言ったのだった。


老人というものはそういうものなのかもしれないが、ジーンも自分の生活を少しでも変えることを嫌がった。
新聞ばかり見て、退屈しているんじゃないかと思い、いろんな本を持ってジーンの家をたずねても、全く反応しない。唯一彼女が嫌がらなかったもの ー それが花である。
私は週に一度はメイドストーン市内に出て、買い物などしていた。そのときに部屋に飾ろうと思って決まって花束の安いのを買うのだが、結構量も多いので、ある日ふとそれを二つに分けて、片方をジーンのところに持って行った。ジーンはそれをにこにこしながら見ていた。私は適当な花瓶を探し、花をいけて部屋の隅に飾った。ジーンは「ビューティフル!」と言ってとても喜んでいた。
ジーンが花に抵抗がなかったのは、もしかしたらそれがいつか枯れて朽ち果ててしまうものだったからかもしれない。


ジーンは毎週金曜日、買い物リストをボランティアに渡す。
それは彼女が一週間で必要とするもの ー トイレット・ペーパー、シリアル、パン、バター、ケーキなどである。私ともう一人のイギリス人ボランティア、ヘレンは交代でこの買い物に行っていた。つまり2週間に一度、私はジーンのために買い物に行くのだった。

この小さな村からメイドストーン市内まではバスで片道30分くらいかかり、しかもバスは1時間、2時間に1本くらいしかない。ジーンはカリフラワーやバナナ、砂糖など、かさばるものや重いものも頼むので、これはかなり重荷な仕事だった。

メイドストーンの街も、暮らし始めて2,3ヶ月もするとあきてきて、帰りのバスを待つあいだ寄る場所もなく、重い荷物を抱えて退屈してバス停に座っているしかない。なにしろ帰りのバスを逃せないのであるから・・・。全て旧式をよしとするイギリスにおいて、バスはぼろい。最近日本でもとりつけられるようになったバーや、低い降車口など備えたバスはない。シルバーシートもない。だがそれでもやっていける。なぜならイギリスにはその全土を覆っているヘルプの心があるからである。
重いカートをひいて街を歩く老人たちは、高い降車口の一段目にとてもそのカートをのせる力はない。けれども困っていたら助けにきてくれるひとがかならずいる。どこからかそういうひとがとんできて助けてくれるのだ。赤ん坊をのせた乳母車を押している女性などがいれば、運転手みずからすすんでそれを乗せてくれる。そんな空気のなかで数ヶ月暮らしていると、私にもそういうことができるようになってきた。
そうやって数人の老人と顔見知りになった。
あるとき帰りのバスに乗っていると、ある停車駅で両手に大荷物をぶらさげた老婦人が降りようとしてすべり、下に落ちてしまった。瞬間的に何人もの男性がたちあがり、そのなかには運転手もいた。婦人はけがはなかったようだが、彼らは彼女を家まで送っていくという。そしてそのなかにも運転手がいたのである。彼は金庫も放り出して婦人を送っていった。私たちは運転手のいないバスに30分ほど乗っているということになってしまった。しばらくして、2階から長髪の若者がおりてきて、「なんで発車しないの?」と聞く。誰かが婦人のことをはなすと、「あ、そう」という感じでべつに不思議がりもせず、2階に戻っていった。だれもいらつきもせず、怒り出しもしなかった。

イギリスにはボランティア・ビザというものがある。これは外国人が生涯で1年間のみ得られるビザである。
私はこのビザを取得して入国した。私は日本でCECという小さな機関をつうじてこのビザを取る手続きをした。CECは大阪の団体で、5月に東京で説明会があったので、私はそれに行った。そのとき簡単な説明と共に、説明員がもらした一言が印象的であった。
「私たちはやりくりが大変なので、何度も大阪府に助成金を出してくれと依頼しているのですが、必ず断られるのです。日本にも介助を必要としているひとがたくさんいるのに、どうしてわざわざイギリスまで行かなければならないのか、という理由で。でも私たちは、長い目で見れば、福祉国家イギリスの現状を知って戻ってきてもらう方が、日本の介護も良くなるのではないかとおもっているのです。」またこうも言った。
「汚いものが触れないと言う人は、CSVのスタッフに言ってください。そういうひとはいるものです。」

イギリスは日本にくらべて、相当貧しい国である。けれども今では豊かな国だったなあと思える。とはいえ、私ははじめからイギリスになじめたわけではなかった。
私がイギリスに着いたのは9月の後半で、暗く重い季節のはじまりにあたっていた。午前10時まで陽はささず、午後4時にはもうくもりはじめるこの季節には心から落ち込んでしまう。
ジャケットでイギリスに着いた私の最初の買い物はコートだった。店に入ってはみるものの、たいしたものはなく、それらの店も日曜日にはすっかり閉まってしまう。まるきりゴーストタウンである。パブは開いているが、私にはそれも魅力的なものではなかった。
唯一楽しかったのは、古着屋で、これはイギリスではどんな小さな町にもひとつはある。アンティークといったものではなく、ただ古い服や靴、アクセサリー、本などを売っている。カーブーツと言うものも在る。これは、家族がそれぞれいらないものを車に積んで、一堂に会するというものである。どこでも、日本のフリーマーケットにあるように、「使っていない古いもの」を売っているのではなく、「使い込んだ古いもの」を売る。最後の最後までものをみすてない。私は寒いのでスカーフを買ったり、にせもののパールのネックレスを買ったりした。なんて退屈な国なのだろう・・・それが私の最初の印象だった。
毎日毎日安物のティーバッグでいれたミルクティーを何杯も飲み、テレビを見て過ごし、平日はちょっと働いてつつましい食事をし、寝る。そんなささやかなことの繰り返しである。だから最初はものすごく退屈な国だと思ってしまうのだ。

私にはウェールズのリールという街に、エマという友人がいる。
イギリスに渡ったばかりのころ、会いに来いと言うので、ロンドンを経由してリールへ行った。そこは私の住んでいたケント州とは違い、労働者階級の街であった。
私とエマとその恋人は、家で話したり、一緒にテレビを見たり、ぼんやり散策したりして過ごした。そのとき私は「イギリスの若者はなんて退屈な毎日を送っているのだろう・・・」と思った。イギリスに渡るまで、東京で働いていた私は、都会の空気を精一杯吸っていた。あの東京の刺激に比べれば、イギリスはあまりに退屈だった。けれどもジーンと3ヶ月 4ヶ月、5ヶ月と一緒に生活していくうちに、私のなかに変化がおとずれた。

めずらしく晴れた日、ジーンのシーツを洗って庭に干したり、シーツにアイロンをかけたり、ヘレンと無駄話をしたり、ラジオを聞きながら手紙を書いたり、庭仕事をしたり・・・。私のなかには幸せそうにケーキを食べるジーン、テレビを見て大笑いするジーン、真夜中に排尿介助に行くと必ず「サンキュー」と言うジーン・・・いろんな風景が焼きついている。

ジーンのベッドにはボタンがセットされており、ひとりで排尿できないときはそれを押すと私たちの家の電話につながる。
一度この電話が壊れてしまったことがあり、そうすると警察に連絡が行くらしく、警察官がやってきた。
私はその晩ひとりだった。ヘレンが休暇をとって実家に帰っていたのである。寒くてくらい深夜に、誰かがドンドン、ドンドン、とドアをたたく音に目がさめた。私はこっそり窓から外をのぞいたが、だれがいるのかわからなかった。おそろしさにふるえあがってしまい、このようなぼろい家のこと、けりあげでもすればすぐ開けられてしまうだろうと思って、恐怖心にさらされながら、ベッドでちぢこまっていた。これが警察官だったのである。結局その晩、ジーンは失禁してしまった。

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