この小さな村からメイドストーン市内まではバスで片道30分くらいかかり、しかもバスは1時間、2時間に1本くらいしかない。ジーンはカリフラワーやバナナ、砂糖など、かさばるものや重いものも頼むので、これはかなり重荷な仕事だった。
メイドストーンの街も、暮らし始めて2,3ヶ月もするとあきてきて、帰りのバスを待つあいだ寄る場所もなく、重い荷物を抱えて退屈してバス停に座っているしかない。なにしろ帰りのバスを逃せないのであるから・・・。全て旧式をよしとするイギリスにおいて、バスはぼろい。最近日本でもとりつけられるようになったバーや、低い降車口など備えたバスはない。シルバーシートもない。だがそれでもやっていける。なぜならイギリスにはその全土を覆っているヘルプの心があるからである。
重いカートをひいて街を歩く老人たちは、高い降車口の一段目にとてもそのカートをのせる力はない。けれども困っていたら助けにきてくれるひとがかならずいる。どこからかそういうひとがとんできて助けてくれるのだ。赤ん坊をのせた乳母車を押している女性などがいれば、運転手みずからすすんでそれを乗せてくれる。そんな空気のなかで数ヶ月暮らしていると、私にもそういうことができるようになってきた。
そうやって数人の老人と顔見知りになった。
あるとき帰りのバスに乗っていると、ある停車駅で両手に大荷物をぶらさげた老婦人が降りようとしてすべり、下に落ちてしまった。瞬間的に何人もの男性がたちあがり、そのなかには運転手もいた。婦人はけがはなかったようだが、彼らは彼女を家まで送っていくという。そしてそのなかにも運転手がいたのである。彼は金庫も放り出して婦人を送っていった。私たちは運転手のいないバスに30分ほど乗っているということになってしまった。しばらくして、2階から長髪の若者がおりてきて、「なんで発車しないの?」と聞く。誰かが婦人のことをはなすと、「あ、そう」という感じでべつに不思議がりもせず、2階に戻っていった。だれもいらつきもせず、怒り出しもしなかった。
イギリスにはボランティア・ビザというものがある。これは外国人が生涯で1年間のみ得られるビザである。
私はこのビザを取得して入国した。私は日本でCECという小さな機関をつうじてこのビザを取る手続きをした。CECは大阪の団体で、5月に東京で説明会があったので、私はそれに行った。そのとき簡単な説明と共に、説明員がもらした一言が印象的であった。
「私たちはやりくりが大変なので、何度も大阪府に助成金を出してくれと依頼しているのですが、必ず断られるのです。日本にも介助を必要としているひとがたくさんいるのに、どうしてわざわざイギリスまで行かなければならないのか、という理由で。でも私たちは、長い目で見れば、福祉国家イギリスの現状を知って戻ってきてもらう方が、日本の介護も良くなるのではないかとおもっているのです。」またこうも言った。
「汚いものが触れないと言う人は、CSVのスタッフに言ってください。そういうひとはいるものです。」
イギリスは日本にくらべて、相当貧しい国である。けれども今では豊かな国だったなあと思える。とはいえ、私ははじめからイギリスになじめたわけではなかった。
私がイギリスに着いたのは9月の後半で、暗く重い季節のはじまりにあたっていた。午前10時まで陽はささず、午後4時にはもうくもりはじめるこの季節には心から落ち込んでしまう。
ジャケットでイギリスに着いた私の最初の買い物はコートだった。店に入ってはみるものの、たいしたものはなく、それらの店も日曜日にはすっかり閉まってしまう。まるきりゴーストタウンである。パブは開いているが、私にはそれも魅力的なものではなかった。
唯一楽しかったのは、古着屋で、これはイギリスではどんな小さな町にもひとつはある。アンティークといったものではなく、ただ古い服や靴、アクセサリー、本などを売っている。カーブーツと言うものも在る。これは、家族がそれぞれいらないものを車に積んで、一堂に会するというものである。どこでも、日本のフリーマーケットにあるように、「使っていない古いもの」を売っているのではなく、「使い込んだ古いもの」を売る。最後の最後までものをみすてない。私は寒いのでスカーフを買ったり、にせもののパールのネックレスを買ったりした。なんて退屈な国なのだろう・・・それが私の最初の印象だった。
毎日毎日安物のティーバッグでいれたミルクティーを何杯も飲み、テレビを見て過ごし、平日はちょっと働いてつつましい食事をし、寝る。そんなささやかなことの繰り返しである。だから最初はものすごく退屈な国だと思ってしまうのだ。
私にはウェールズのリールという街に、エマという友人がいる。
イギリスに渡ったばかりのころ、会いに来いと言うので、ロンドンを経由してリールへ行った。そこは私の住んでいたケント州とは違い、労働者階級の街であった。
私とエマとその恋人は、家で話したり、一緒にテレビを見たり、ぼんやり散策したりして過ごした。そのとき私は「イギリスの若者はなんて退屈な毎日を送っているのだろう・・・」と思った。イギリスに渡るまで、東京で働いていた私は、都会の空気を精一杯吸っていた。あの東京の刺激に比べれば、イギリスはあまりに退屈だった。けれどもジーンと3ヶ月 4ヶ月、5ヶ月と一緒に生活していくうちに、私のなかに変化がおとずれた。
めずらしく晴れた日、ジーンのシーツを洗って庭に干したり、シーツにアイロンをかけたり、ヘレンと無駄話をしたり、ラジオを聞きながら手紙を書いたり、庭仕事をしたり・・・。私のなかには幸せそうにケーキを食べるジーン、テレビを見て大笑いするジーン、真夜中に排尿介助に行くと必ず「サンキュー」と言うジーン・・・いろんな風景が焼きついている。
ジーンのベッドにはボタンがセットされており、ひとりで排尿できないときはそれを押すと私たちの家の電話につながる。
一度この電話が壊れてしまったことがあり、そうすると警察に連絡が行くらしく、警察官がやってきた。
私はその晩ひとりだった。ヘレンが休暇をとって実家に帰っていたのである。寒くてくらい深夜に、誰かがドンドン、ドンドン、とドアをたたく音に目がさめた。私はこっそり窓から外をのぞいたが、だれがいるのかわからなかった。おそろしさにふるえあがってしまい、このようなぼろい家のこと、けりあげでもすればすぐ開けられてしまうだろうと思って、恐怖心にさらされながら、ベッドでちぢこまっていた。これが警察官だったのである。結局その晩、ジーンは失禁してしまった。